倭の五王(わのごおう)とは、5世紀に、南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」などに冊封された倭国の五人の王、讃、珍、済、興、武の事。
中国の文献(「宋書」倭国伝等々)に書かれている。
「日本書紀」の天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇等の説がある。
このうち「済」「興」「武」については研究者間でほぼ一致を見ているが、「讃」と「珍」については「宋書」と「記紀」の伝承に食い違いがあるため未確定。
しかしながら、倭国の実態や、倭王と大和朝廷との関係性も未だ定説を見ないらしい。
最初に倭の五王と大和朝廷の関係性を否定したのは、本居宣長です。
江戸時代ともなると日本独自の文化が確立し、儒学者の中にも中国を軽視する傾向になっていったのでした。
そんな中に「古事記」を解読した本居宣長が、大和朝廷が朝貢外交をしていたなどとは、日本としてのプライドが許さなかったのかも知れないですね♪
現代でも、倭の五王が大和朝廷と関係ないとする主張は、この本居宣長の思想を受け継いでいるんだと思います。
朝貢していた卑弥呼と大和朝廷の関係性が曖昧なのも、まあ、同じ理由ですね。
歴史のどこかの時点で、日本は朝貢外交をしていなかった、となっていったんでしょう。
ただ、倭の五王と天皇系譜との一致は偶然とは言えないので、(中国の文献中の内容全て信憑性があるわけではないが)個人的には、概要は合っていると思っています。
2ちゃんねるで面白い説を展開している人がいたので、読み込んでしまいました。
便所の落書きと揶揄される掲示板ですが、アカデミー板とかは結構まともな議論が為されているので、たまに参考にしています。
彼曰く、「冊封(さくほう)と封国(ほうこく)は違う」という主張です。
「封国」は「冊封」とは違い、皇帝の親族か、初代皇帝と共に戦った将軍等、皇帝にとって遠ざけたい大物の勢力を、中央政権管理下の県としての地方ではなく藩として、遠方に政府直轄管理外の領土を与えて封じる時の言葉と言う訳です。
ネットや辞書で調べると、「冊封」と「封国」も同じ様な意味として扱われています。
しかしながら、「聖書を読み解く鍵は聖書にあり」と言うこともあり、実際の使用形態がどのように違うのかは、文献を当たって調べてみないと本当の意味はわかりません。
私自身も何冊か文献を当たったのですが、確かに彼の言うとおりで、朝鮮やベトナム等の蛮族(漢民族以外)出身の族長に対しては、封国とは絶対に使用していません。
全ておしはかった様に冊封を使用しています。
これに対して、倭の五王に関してだけは、封国と言う言葉を使用すること許しています。
他に封国を使用しているのは、皇帝の次男坊とかに土地を分割し属国とした場合にのみです。
中国の正式文書で、封国という言葉を使用しているのは、蛮族出身では倭王以外、歴史上一度もないと言うのは不思議です。
納得する理由としては、(この部分は明確に文言としては残っていないが、)皇帝の親族が倭王になったと言う解釈にならざるを得ません。
そう考えて「宋書倭国伝」を読むと、確かに「僕は地方の180の国を統合しましたよ」とか、子供が母親に自慢する様な女々しい文言が並んでいるのに気付きます。
子会社の(親会社からの)天下り社長が、業績を過大に報告し、何とか本社(親会社)に戻して貰おうとする姿に似ています。
現在の中国に、まともな漢民族は残っていないと思います。
全て他民族との混血か自称漢民族なのはもちろんですが、ここでは血統という意味ではありません。
漢民族の文化、風俗、風習などはことごとく破壊されて、微塵も残っていません。
易姓革命で漢民族から皇帝が生まれるかどうか?
生まれたとしても本当の漢民族王朝かどうか?
多分、中国という多民族混血国家があるだけで、群雄割拠する三国志時代の易姓革命は無いと思います。
もし倭の五王が皇帝の親族だとして、更に倭の五王が大和朝廷につながるのだとすると、(本家の漢民族が無くなったので)日本こそが漢民族の正当な継承者と言うことになり、歴史が根本的に変わってしまいますね。
面白いけど、どうなのかなぁ?( ̄△ ̄)